近代に発達した言語学はソシュールの言語に特化した記号論の影響を強く受けている。
一方、言語人類学ではパース記号論に立脚した研究を蓄積してきた。特に、パース記号論における象徴性・指標性・類像性は、ことばと社会文化を捉える記号関係を分析する上で重要な概念だ。
パース記号論の第二性
象徴性とは、ある記号(例: 音)とある記号(例: 意味)の関係が恣意的なもの、あるいは慣習的な規則性に基づいているものを指す。言うなれば、「なぜ、これとそれは結びついているのか」といった理由が慣習的な規則性以外では説明できないものが象徴性だ。一方、その理由を指標性は連続性・隣接性、類像性は類似性・同一性となり、象徴性はそれらに当てはまらない、いわば残余範疇(カテゴリー)である。
類像性は、肖像写真、鏡像、口真似、物真似、引用、文字など、似ているある記号とある記号を結びつけ、指標性はなにかを指さす方向、風見鶏が示す方角、火の煙と火事、地域方言と出身地域との関係、感情表現と感情との関係など、連続的にたどれる記号と記号の関係を指し示す。
言語構造は語彙も文法も象徴的だが、言語使用は指標類像的なものといえ、ソシュールをはじめとした近代言語学では後者の指標性の次元が抜け落ちている、と整理できる。いわば、コミュニケーションの基本的なモードは指標性であり、下記の記事で挙げている東京標準語「なかった」の例にあるように、言語構造と言語使用、話者とその無/意識(≒言語イデオロギー)は結びついている。
というか、指標性は人文学・社会科学で全般的に見落とされがちな視点だ。大学教授がどこか自分たちの依拠する知識情報ばかり語っているように見えるのは、指標性を駆使して、学ぶ者にとって親しみを感じたり興味をそそる類像性を引き立ててないから。ねっ、指標性って、つまりコミュニケーションって大事でしょう?