言語論的転回からメディア論的転回へ──現代思想の潮流

 本記事では、哲学的な三つの転回について紹介する。これを抑えておくと、人文社会科学的な系譜の流れをつかみやすくなる。

転回の系譜:認識→言語→メディア

 三つの転回とは、「認識論的転回→言語論的転回→メディア論的転回」のことである。 人文社会科学を学ぶ者であるならば、これらの転回が起きてきたことはよく頭の中に入れておくべきだろう。簡単に説明する。

 認識論的転回とは17世紀に起きた哲学の潮流である。デカルトを始めとして「私とはなにか」といった問いから客観や主観を巡る意識に着目した哲学が登場してきた。 そこから、20世紀後半になるとリチャード・ローティ著作の『言語論的転回』(1967年)から新たな転換点として言語論的転回という概念が登場した。これは、狭義の意味では英米で発展している分析哲学を指すものであるが、次第に20世紀全体の哲学を指す言葉として普及していった。

 たとえば、現代言語学の祖と言われるソシュールやヤコブソンから始まった構造主義、フーコーやデリダといったフランス思想からもたらされたポスト構造主義、ガダマーの解釈学、ハーバーマスが提唱するコミュニケーション理論などがそうである。 しかし、「アプリオリ(前提)としての認識」として「アプリオリとしての言語」が見直されたが、その流れと同じ論理として「アプリオリとしてのメディア」という問いが徐々に染み出していったのが、21世紀における哲学的な潮流である。

メディア論的転回とはなにか

言語を認識の前提としてとらえるように、メディアを言語の前提としてとらえることができる。認識や言語を一つのメディアとして、メディア論へと引き戻すのである。 わたしたちは、光というメディアで見て、音というメディアで聞くように、言語というメディアでコミュニケートしている。メディアを通してのみ、わたしたちは他者に触れあい、世界を経験することができるからである。

メディア論―現代ドイツにおける知のパラダイム・シフト』(8-9頁)

 人は身体器官から発せられた「音」によってことばを生み出し、それらは「文字」というメディアが開発されたことによって書物を生み出した。そして、はじめは手書きだった書物も印刷革命を経ることによって大量生産することが可能になり、「知」を手に入れることができる者は一部のエリートに留まらず増大していった。

 いまや、インターネットを始めとしたIT技術の革新が続く世の中である。今後、人工知能やブロックチェーン技術による仮想通貨の発明、さらにはバイオテクノロジーの進展などによって、さらなる革新が続いていく、というのがメディア論的転回の流れである。

 これまでの人文社会科学においては、マルクス主義を始めとした啓蒙思想で押し出されたのが「解放」だった。だが、実際の社会で起きたことは「解放」を語れど、一意的な抑圧の再生産が行われてきた側面があることも否定できない。ポストモダン思想の中で相対主義的でアイロニカルな言説が1980年代から優勢ではあったが、徐々にそれが衰退していくなかでメディア論が脚光を浴びてきた。

 こうした流れを象徴するかのように、「映像の世紀から魔法の世紀へ」というメディア革新と資本主義を前提とし、それを推し進める者も登場してきている1

まとめ

 ポストモダン思想と言語論的転回からメディア論的転回という流れは人文社会科学を学ぶ者にとって切っても切り離せない問題を提起している。確かにメディア・技術の発展は凄まじく、もはや人の発展の追随を許していないようだ。資本主義的社会においてはそういった技術に投資が促され、さらなる発展を遂げていくように思える。そういった流れは一概に悪いものだとは思わない。むしろ、技術革新によってさらに便利で効率的で、より多くの人を救えるような、より多くの人が比較的平等になる社会に近づきつつあるのだと思う。

 しかし、だからといって全くもって「メディア」が全てであり、「人」は身体を持った媒介でしかなく、生きている生身の人を切り捨てるような言説が良いものだとは思えない。少なくとも、より広く現状を認識し、より深く理解できるような知識・経験・批判の入り口はあって然るべきだろう。その一環として、こうしてインターネット上に最低限の現状に対する学問的な情報を流してみている。

著者 :寄川条路 [編]

出版日:2007年3月

出版社:御茶の水書房

『メディア論―現代ドイツにおける知のパラダイム・シフト』

 (3.5)

¥2,200(税込)

知の最前線に立つメディア論を興味深く紹介しながら、現代のアクチュアルな諸領域に踏み込む。メディア論にかんする国内外の代表的な文献を収め、コンパクトな入門書としても最良。[公式]

  1. 『魔法の世紀』を著作した落合陽一助教が推し進める世界観では、現実とヴァーチャルの区別がつかないような「デジタルネイチャー」を目指している。が、この世界観は技術革新をもたらすための資本主義的社会を前提としており、人工知能を始めとしたテクノロジーの発展によって、いわゆる中間層の仕事はなくなうことを示唆しており、「魔法の世紀は裏を返せば奴隷の世紀」でもあると言及している。 ↩︎