方法論的多元主義的を取る。 Wodakの研究を引き合いに、解釈の公正さを狙って以下の4つの基準を挙げている。
- 複数性、解釈の論証可能性:分析者以外も解釈の論理を追えるようにする必要性
- 資料に対する距離:調査分析過程で役割分担をする
- 資料の多様性:多角的に資料を集めることで相対化し、資料に応じて手法を使い分ける
- 学際的な接近:多様な専門家が集まって解釈を行う
資料収集や調査分析を行う上でこのようにできれば、Faircloughなどが行っている批判的分析に比べれば、恣意的な資料選択や解釈と言われにくいだろう。
結局のところ、CDSを用いた研究を行うに当たって、どのような研究課題を設定しているかによっても、そこに潜む研究者の知識や規範はどれだけ正当化されうるものなのか、資料収集や分析は妥当なのかが変わる。
そこが曖昧化されていたままの分析は、社会批評や当事者の声として一定の妥当性はあっても、研究としても実践としてもあやふやなままになってしまう。
規範/研究/問題
CDSが研究する上で、全体として何をなそうとしているのか。大雑把にまとめると二つの志向性があるはずだ。
- ディスコースの意味生成と受容のプロセスを記述する“研究”志向
- 動的に形成されるディスコースによる抑圧の緩和という“問題”志向
こうした志向性がある上で、さらに切り分けると「規範/研究/問題」の三つの課題がそれぞれ浮き上がってくる。
- 批判的“規範”を持つ以上は、自身の寄って立つ価値観をどのように妥当的に論じれるかを検討する必要があること(当事者としての課題)
- 学術的“研究”を標榜する限りは、問題とするディスコースへの記述に関する正当性が絶えず問われるということ(研究者としての課題)
- 社会的“問題”に取り組む限りは、どのように問題とし認知され、検討し、解決に取り組むのかに関しても問われるべきであるということ(実践者としての課題)
CDSを行うということは、「当事者」であり、「研究者」であり、「実践者」でもあるという、それぞれが当然関係しあう課題をはらんでいる。
「規範/研究/問題」志向はそれぞれ次のような課題があるだろう。
- 当事者としての課題:単に自分の持つ“声”を主張するだけであるならば、それは研究者という社会的立ち位置から発せられる権威化として解釈されてもおかしくない
- 研究者としての課題:“批判”に対する政治哲学的理論の洗練化と、ディスコース分析における方法論の洗練化が不可避である
- 実践者としての課題:広く社会的に検討されなければ、研究者同士における”ダイアローグ”となるだけで、社会的には“モノローグ”なものになってしまう
おわりに
批判的談話研究が扱うのはコミュニケーションにおける政治社会文化的な関係性であって、動的な意味生成と受容のプロセスを研究として分析する限り、コミュニケーションにおける不平等や抑圧は解決されるということは、根本的にありえない。
どんなに対話のために批判的分析をしたとしても、自身が研究者というまなざしから見ていることで、ある種の権威化を伴ってしまう。
- ディスコースに対して問題志向的ではあるが、必ずしも問題解決的な学問ではない
- そこに外的批判と内的批判の両者を包括する捉え方がある
当然、社会文化的状況に応じてもそうだし、研究者や研究対象によってそれぞれ「規範/研究/問題」への志向性レベルは異なる。それでいて、どこまで対話を重んじるかも。
ここに対する認識というか自分の規範や社会的立ち位置を、納得できるまで考え抜かないといけないという思いを改めて強くした。とりあえず、CDSの論考を見ていると「方法論」には言及してても、肝心の「規範」と「実践」がおざなりにされている気がして、少しもにょる。